今西逆転無罪判決が浮かび上がらせる冤罪を検証する制度の必要性-法務省主導の刑事司法制度改革では冤罪は防げない
今西貴大さんの逆転無罪判決に対しては、多くの方からお祝いのお言葉をいただいた。アメリカのイノセンスネットワークでも、今西事件は国際的に報告され、SBS/AHT問題に取り組む多くの海外の方々からも祝福をいただいた。そのようなメッセージの中で、アメリカでの冤罪事件の取り組みで著名なBarry Schek弁護士から、「(日本では)今回と似た古いエラーの事例を検証するメカニズムはあるのか?」という質問をいただいた。「残念ながら、ない」としか返答のしようがなかった。これは、日本の司法が抱えるきわめて重大な問題である。筆者は、信楽列車事故の遺族の弁護団にかかわった際に、遺族らとともにアメリカのNTSB(National Transportation Safety Board=全米運輸事故調査委員会)の訪問・視察するなどしたことから、運輸安全の基本を聞きかじった経験がある。事故が発生したときには、そのエラーの原因を徹底的に調査し、事故防止策につなげることは(いわゆる「失敗学」)、安全学、再発防止策の基本中の基本である。もちろん、運輸事故に限らない。医療事故や企業ガバナンスでも、この基本は当然のことと受け止められるようになっている。
ところがである。日本の刑事司法においては、その「基本」がほとんど無視されている状態なのである。さすがに、大阪地検特捜部による元厚労相局長事件における証拠改ざん事件が発覚したときの衝撃は大きく、2010年に法務大臣によって「検察の在り方検討会議」が設置され、2011年には最高検察庁が「検察の理念」を定めるなどの取り組みが見られたが、袴田事件を加えて戦後5件に及ぶ死刑冤罪事件を含む過去多くの冤罪事件を検証する機関が設けられたことはない。プレサンス元社長冤罪事件が示すように、「検察の理念」は、「理念」とは名ばかりのお題目に堕しただけであった。そして、輪にかけて話にならないのが、取調べの可視化などの2016年刑訴法改正の3年後検証のために、法制審議会の下に設けられた「改正刑訴法に関する刑事手続の在り方協議会」(以下、「協議会」)である。協議会では、開設当初に協議会の事務を取り仕切る法務省事務局より、「個別の事案の当否についての議論は行わない」との方針が示され、その旨の仕切りがなされたのである。呆れるほかない。個別事案の失敗から学ばずして、一体何のための検証なのか、そもそも検証の名にも値しない。プレサンス元社長事件で冤罪被害を受けた山岸忍さんは、常に「私たちビジネスの世界において、何らかの間違いが起こったときに、その原因を探求しないということなど考えられない」と述べておられる。実際、SBS検証プロジェクトのブログで述べたが、今西事件は、原判決の論理則・経験則違反を手厳しく批判しており、失敗の典型例だと言える。その失敗の原因を検証し、さらなる冤罪を防ぐための方策を検討すべきことは、当然の論理的な帰結である。むしろ、今西事件の第1審判決が失敗の典型例であったということは、それが再発防止のための教訓の宝庫であることを示している。しかし、プレサンス元社長冤罪事件についても、検察庁には一切の反省も検証の様子は窺えず、協議会も上記のような有様である。袴田事件についても、1966年の事件発生から実に58年、1980年の死刑確定からでも44年もの間、無実の袴田巌さんを死刑囚の地位に置き続けたことに対し、検察庁は、冤罪を生んだことに対する反省や検証の姿勢を示すどころか、検事総長において、再審無罪判決を非難し、あたかも袴田さんをなお犯人視するかのような声明をするのが、その実情である。政治情勢が流動的なこともあり、袴田事件を契機にして、今後、日弁連が求めているような再審法改正や、冤罪についての第三者検証機関への動きが進むかは不透明であるが、少なくとも検察官の出向者が法務官僚として牛耳る法務省が、冤罪防止策を真剣に検討するとは思えないし、そもそもそのような法務省が主導できるはずもなく、また、主導すべきでもない。今西事件についても、手をこまねいているだけでは、検証して冤罪の再発防止につなげようという気運には、つながらないであろう。実際、これまで多くのSBS/AHT事件で無罪判決が続いているが、今までのところ、その検証機関を設けようとする動きは全くない。
翻って、冤罪防止策に対し、日本で検証機関を設けようという動きに発展しない理由には、裁判所の消極姿勢も影響していることは否めない。司法の独立の観点から、あたかも裁判の内容に口出しするかのような機関を設立することには根強い抵抗があると考えられるのである。確かに、日本では自民党が裁判に介入しようとし、「司法の危機」と呼ばれる時代を経験している。そのときに醸成された裁判官の政治的自己規制、萎縮的姿勢は、21世紀の4半世紀を経ようとしている現時点でも、司法界に根強く影響を与え続けていることに疑いはない。そうである以上、誤判の内容を検証しようとすること自体に、裁判所がアレルギー反応を示す気持ちは理解できるところではある。「司法の独立」「裁判の独立」を保障することは重要であるが、「冤罪防止」という究極の正義を実現するという目的のために、冤罪の検証機関を作ることが、「司法の独立」と本当に相容れないのか、司法の独立を侵さない形での検証はできないのか、改めて検討が必要であろう。
海外に目を向けると、2000年にアメリカ・イリノイ州のライアン知事が冤罪事件をきっかけに設けた死刑調査委員会(the Commission on Capital Punishment いわゆるライアン委員会:イリノイ州での死刑停止や取調べの可視化につながった)、2004年にイギリスの法務長官が乳幼児の殺人事件に関する調査を行ったほか、2005年にカナダ・オンタリオ州で発覚した児童死についての法医学者の不正鑑定による冤罪事件をきっかけに行われたグージ調査(Goudge Inquiry)、2014年のSBS事案におけるスウェーデン最高裁逆転無罪判決を受けてSBS仮説の科学的根拠を徹底的に調査したSBU報告書、2016年にノルウェーの国立医学・健康研究倫理委員会(The National Committee for Medical and Health Research Ethics:NEM)により承認されたSBS/AHT関連裁判の調査などがある。イングランド・ウェールズやスコットランド、ニュージーランドには、常設の誤判救済機関として、刑事事件再審査委員会(the Criminal Cases Review Commission:CCRC)がある。
日本においても、再審法の改正は当然のこととして、さらに進んで誤判の検証による冤罪再発防止の道を真剣に模索すべきである。
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